Field of Ideas

ルービックキューブの日本大会で2度(2007年、2012年)チャンピオンになったことくらいがとりえの、社会の歯車によるブログ。

【ネタバレ】まどマギ新編をもう一回観に行ったので、「分かった」ことを書く

妹とまどマギ新編を観る約束の日は、11/1。明日である。

だが、私はその日まで待てなかった。今日、用事があって池袋に寄ったついでに、シネリーブルで観ちゃったのである、「魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語」を。

だって、分かりたかったんだもん。

1回目に観ただけではいまいち曖昧だった、あのシーンの考察や、あのキャラクターの行動背景。

もちろんノートとボールペンを持って、映像を観ながらバリバリ書いていった。

 

見終えた後、私の視界は輝いていた。

1度目はそのハードすぎる展開からどんよりとしていたのだが、2回目は大変すっきりとした気分である。

改めて断言しよう。まどかマギカ新編は、やっぱり凄い!と。

そして、1回目でどんよりしてしまった人は、ぜひとももう一度観て欲しい。

まるで、結末を知るまでうんうん唸ってしまったミステリーの解決編を観ているような気分になるだろう。

 

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(今回の色紙はアルティメットまどかでした。やったぜ)

 

というわけで、例によって以下ネタバレ、です。

 

 

まず、私の中で記憶が曖昧だったシーンで、「分かった」ことから書いていく。

 

まず、ほむらがソウルジェムの中で結界を作ることになってしまった理由である。

キュゥべえことインキュベーターは、ほむらの濁りきったソウルジェムを、干渉遮断フィールドの中に閉じ込めると、一体何が起こるのかを実験していたのである。

結果として、ほむらのソウルジェムの中で、魔女が生まれてしまった。

それも、見滝原町全体を再現する程の巨大な結界を、つくりあげてしまったのだ。

そしてマミや杏子、まどかの家族や和子、仁美と恭介、そしてどういうわけか中沢が、ソウルジェムの内側から誘導され、結界の中に入り込んでしまったのである。

そして結界の中で、彼らは魔女ほむらの下で記憶を操作されたというわけなのである。

なるほど、それなら誰しも概念となったはずのまどかのいる世界に何にも疑問を持たないのも納得である。

 

そういえば、マミとほむらが虚淵流ガン=カタ決闘をした後に、さやかがほむらに投げかけた言葉が印象的だった。

「魔女だからという理由で、この結界を作ったものを倒すのか」、と。

このシーンの後で分かるのだが、この結界を作ったのは、ほむら自身なのである。

さやかは「円環の理」のかばんもち(?)として、ほむらの救済をサポートしに、結界へやってきたのだ。

ゆえに、この結界は誰が作ったのか、そしてこの結界を作ったものが何を望んでいたのか、さやかは知っていたのである。

だからこそ、「いまがいちばん幸せなんじゃないか」と、ほむらに問いかけたのである。

いやはや、さやかよ、TV版とは打って変わって、だいぶ余裕のある女になったものだ。虚淵氏、GJ。

 

そしてやはり問題は、自問自答を繰り広げる中でまどかに会ったときのほむらであろう。

TV版において、ほむらはまどかが概念となることに対して、なす術が無かった。

ただ単に、まどかが世界を再編し、概念となるのを、横で観ているに過ぎなかった。

ほむらはそれを「夢」と前置きした上で、以上のことをまどかに告白したのである。

その時のまどかの答えたるや。「私だけが遠くにいくなんて、そんなほむらちゃんが泣いちゃうくらいつらいことなんてしないよ」「わたしだって、みんなとおわかれしちゃうのは辛いよ」と。

セリフはうろ覚えだが、こんなことを言っていたように思える。

まどかはおそらくその優しすぎる性格からこのようなことを言ったのだろうけれど、この言葉がほむらにはとても大きなものとして残ったのである。

そしてほむらは、友情をも超越した「愛」を増幅させた。その結果がこれだよ!!

 

「この時を、待ってた...!!」

 

その力はアルティメットまどかを裂き、概念のまどかと人間のまどかを分離させたのである。

ほむらの「愛」の力の前には、さすがのインキュベーターもドン引きしていたようであるが、

そんなことは本人の知ったことではない。彼女は最早、理想の世界を作り上げることしか眼中にないのだ、と私は推測する。

 

世界を改変した後、まだ円環の理だった頃の記憶が残っているさやかは、ほむらを問いつめる。

円環というルールを改竄した「悪者」への断罪を、さやかはしようとしていたのだ。

だがそれも野獣と化した先輩、おっと、悪魔と化したほむほむの前では無力であった。

さやかの「円環の理」としての記憶は薄れたのである。なぎさは完全に普通の小学生と化してしまったし。

 

そして、ほむらはアメリカから見滝原に戻ってきた(ということになってる)まどかにこう問いかける。問いかけの構図は、TV版第1話に似ている。ほむらの目が逝ってるが。

簡単に言うと、「欲望」と「秩序」、どちらを選ぶかということである。

まどかはそれに対して、「自分勝手にルールを破るのは悪いこと」だと言う。

まどかは暗にほむらの下した結論を否定したのである。

しかし、ほむらはそれを良しとした。彼女はいずれ魔獣が消えた時に、まどか達の敵となることを自覚しながら、まどかが幸せでいられる世界を作ろうとしているのである。

 

......ここまで風呂敷を広げて、なお「続編要らなくね?」と思う人は、是非とももう一度見返してみてほしい。

君たちはあのラストシーンで、悪魔が死ぬと思うのかい?

 

 

ところで、検索ワードをみると、どうも気になるものがある。

Kalafina「君の銀の庭」関連で飛んでくる人が、わりかし多い気がするのだ。

たしかに私は、「このうたは良い!」と書いた。しかしながら、この歌が具体的にどうであるとか、歌詞がどうであるかは、まったく書いていない。そういう意味では、せっかく検索してやってきた人たちには、大変な失礼をしてしまったと思う。

流石に歌詞の書き下しなどは著作権上の問題もあるからしない(歌詞はCD発売まで待とう、な?)が、この歌を聞いて思ったことを書いていこうと思う。

 

「君の銀の庭」は、3拍子、ワルツのリズムで展開する曲である。

メロディーはきわめてシンプル。コード進行もBメロで転調すること意外は、ベースラインが下降するだけのシンプルなものである。

そのシンプルさが、この楽曲に「やさしさ」と「慈しみ」を纏わせているように思えるのだ。

では、何に対しての「やさしさ」と「慈しみ」なのか。

これは間違いなく、ほむらの、まどかに対する、「やさしさ」と「慈しみ」なのである。

ほむらはあくまでも、まどかがこの世に存在できることを目的に行動したのである。

その結果、魔法少女各々が楽しく生活できる世界が実現したのである。

まどかが消えてしまうような世界は、実現させないようにする。

それこそが、ほむらのまどかに対する、「愛」なのである。

そう考えると、この曲の美しさが、あの大きすぎる愛ゆえの恐怖にも思えるであろう。

 

まあ、私ではこのようなちんけな解釈しか出来ないですが、あのメロディーと歌詞の絡みが絶妙で、私は2回目の視聴にもかかわらず、ここで涙を流したものだった。

ああ、やっぱり梶浦さんはニクい(?)。作曲もさることながら、作詞のセンスも高いですわ......。

 

ちなみにエンディングの映像は、ほむらと思しきシルエットと、まどかと思しきシルエットが、別々に踊っている。

ワルツは「円舞曲」を意味するため、ちょっとした違和感を覚える。

最後は二人は手を取り合い、画面の奥へと消えるのだ。

これはまどかがほむらの掌に入ったことのメタファーだろうか。それとも。このあたりは解釈の余地があるのではないだろうか。

 

 

いやはや。やっぱりまどかマギカ新編は面白かった。

2回観たことで、より理解が杏子、おっと、強固なものとなった。

これで明日妹と一緒に観ても、なんでも説明できる!!

 

......かな。

 

 

もちろん、今回もコメント欄を用意します。まどマギ新編そのものの感想や、このブログ記事への意見を書いてくださったら幸いである。

 

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ちなみにメモはこんな風にとっていました。